ポスト・ヌーヴェル・バーグの映画作家、フィリップ・ガレル。彼のインタビュー本「心臓の代わりにカメラを」において、レオス・カラックスはガレル監督作品『秘密の子供』(1979)についてこのように書いている。「大気が冷たい。カールのかかった髪を通し、男は女を見つめる。二人は一緒に震えている。映画が震えている」。まさしく本作は“震え”の映画である。風に揺れる木の葉、振動する窓、モノクロの画面に眩い暖炉の炎、自然が作り出す震えと共に、ある一組の男女の愛を捉えるカメラと、痛みと幸福で満杯となった恋人たちの身体は、アンヌ・ヴィアゼムスキーの天使性をたたえた巻き毛は、堪えきれないというように小刻みに震えている。永遠に痙攣し続ける愛の誕生と変容。「あなたの心はカメラなの」—フィリップ・ガレルの心=カメラは、恋人ニコとの別離を蘇らせた永遠の舞台において、悲痛に狂おしく震え続けている。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの元メンバー、歌手のニコとの愛の記憶を描く本作は震えと眼差し、反復で構築された、ぱっくり割れた心臓から生々しく流れ出る涙の結晶であり、癒えない傷跡そのものが擦り切れた愛を見つめ直す映画なのである。
ファトン・カーンの音楽で雄弁さを増す暗闇に、物憂げな眼差しが蝟集している。長く続く叫びよりもぞっとさせる、裂くような露光。想起される瞬間を生きる人々の、極めて私的な物語と映像には、写真が持つ、魂を抜き取る凄みを感じさせる。既に崩れてしまった愛、つぎはぎだらけの思い出のコラージュは、視線の指の間をすり抜け砕けてしまいそうに儚い。部屋の中に横たわる女がいる。男が見つめている。視線は交わり、再び離れる。彼らの視線の睦み合いは何度か反復される。ガレルの映画で、女たちはじっとシーツの上に身を投げ出し、瞼をつむり、慈愛と装置としての冷静さが同居した眼差しで抱擁される。ただ視線を交わし合う男と女、開け放たれた窓も眼前に広がる海の開放感も養うことのできない濃密な空間に、すぐ恋人同士だと汲み取ることのできる、なんと陶然たる画だろう。「あなたの心はカメラなの」劇中のその台詞の通り、ヴィアゼムスキーがその役割を担うかつての恋人を、彼女の子供を見つめるカメラ=主人公の視界は時折霞み、睫毛が震えるように揺さぶられるのだ。暗闇に溶けた男と女、確認することができるのは口付けだけ。雨の中傘もささずに座り込む二人。佇むだけの彼女に心は近寄り、全く同じシークエンスが反復する。『革命前夜』(1964)で若きベルナルド・ベルトルッチが別れを惜しみ抱擁する恋人たちの姿を反復させたように、その瞬間を凝固させたい、もう一度経験したいという沈痛な願いは映画によって達成されるのだ。しかし、カメラを心に、カメラを心にしてかつての恋人ニコとの愛を、パーソナルな愛の痛みを虚構の世界において反復するガレルの試みはある種の呪縛さえも嚥下したストイックさが感じられる。
ニコの死後の1991年、ガレルは彼女に捧げる映画『ギターはもう聞こえない』を発表する。デニムジャケットを羽織る“本作でのニコ”マリアンヌに扮する、ヨハンナ・テア・ステーゲの眠る姿。ほの暗い海の下で燃える情熱と虚無で、全編に渡り息は詰まりそうだ。「男と海(ラ・メール)」という甘美な台詞から始まる本作は、『秘密の子供』とほぼ同じプロットを持つ。ニコとの物語は、ガレルの当時の伴侶ブリジット・シィに生活の倦怠を託して、再び語られ直すことになるのだ。だが同じ恋人との愛の変遷を描いた『ギターはもう聞こえない』と『秘密の子供』の魅力も、映画における眼差しも、決して同様では無い。「あなたの“目は”カメラなの」、では無く「心がカメラだ」と呟く映画監督の覚悟は、『秘密の子供』において、生々しい傷口と不安定な恋愛の機微とを抱擁する役割を果たし、「映画の痙攣」「映画の震え」という美と変わり威厳を発揮し続ける。モノクロの、極北の舞台で、恋人たちは回り続けるフィルムの中で何度も出会い直し、“現在”となり、永遠となってゆく。セルロイドで出来た恋人たちの“秘密の子供”へ注ぐ眼差しへおろす探査機もまた、震えているのだろうか。「二人は一緒に震えている。映画が震えている」。
(和泉萌香)
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